贅沢な暮らし、幸せな暮らしとは何か。
皆さんこんばんは。
今日は久しぶりに小噺を書いてみたいと思います。
お時間のある方、どうぞお付き合い下さい。
さて、どうして今回この記事を書くに至ったかと言うと、きっかけの一つは、ここのところよく取り沙汰されている『カルロス・ゴーン氏の不正等』の問題。
ニュースをぼけーっと見ていたら、『数千万円の家族旅行代金も日産が負担か』という内容が出てくるではないか。
数千万円の家族旅行代金?
数千万円の家族旅行代金??
数千万円の家族旅行代金???
……???
金額が大き過ぎて今一実感が湧かないのだが、家族旅行って数千万円も必要なの?
(自慢じゃないが私は一度の旅行代金が10万円を超えたことなんて無いわよ)
…というか、それ以前に、合計何十億かの報酬を得ていながら、どうして不正まで行って更なるお金を求めてしまったの?
…で、まあ今回のゴーンさんの件だけじゃないんだけど、いろんなことを考え合わせて、
お金を稼ぐことには上限がないから、お金だけを人生の目的にしてしまうことは不幸なんじゃないか
と、思った。
稼げるお金にも上限は無いし、注ぎ込んだお金の量だけで計られる贅沢な暮らしにも上限は無い。
だから、どこまで行っても満足は出来ないんじゃないかと。
で、贅沢とは何か、なんだけど、うちにある古ーい(高校生くらいの時に購入した…)電子辞書の広辞苑(第五版)によると、
「1.必要以上に金をかけること。分に過ぎたおごり。2.ものごとが必要な限度を越えていること。」
とある。
まあつまり言葉の意味としては『お金をかけること』というのが主なものであり、その意味で『贅沢とは何か』と言えば「お金をかけること」なんだから、お金がかかった暮らしこそが贅沢なんだろう。
でもこの文章内では、「贅沢=お金をかけること」とは捉えず、「贅沢=真に私達の欲求を満たすもの」という意味で用いたい。
つまり「贅沢な暮らし」=「本当に私達が幸せと感じる暮らし」という意味で。
最近そういう意味で「贅沢」が使われているのよく見るような気がするけどなあ。
まあまずはここだと思います。
これは、「朝起きて布団の中でテレビゲームをしてずっとゴロゴロして気付いたら美味しい食事が出てきたから食べてその後テレビをずっと見て寝た」みたいな生活のことを言っているんじゃなくて、
こういうことを望むこと自体がそもそもストレスが溜まっている状況だと私は思うのですが、それはさておき、
自分が「これだ、この仕事で私は生きて行く!」と思えるものを生業にし、その仕事に精を出し、
「この人と仕事がしたい!」と思える相手と仕事をし、相手の役に立ち、
「この人のために家事をしたい!もしくは稼ぎたい!」と思える相手と暮らしを共にし、お互いを支え合う。
これが、一番幸せ=贅沢なことだと思う。
エネルギーが循環して、体が一番良く動く気がするんだよね。
ただこの場合、それが「どの仕事なのか」「どの人なのか」は人によって違うだろうし、自分で見つけなきゃいけないものだから、「この仕事をやっておけばみんな幸せになれるよ!」みたいなことは言えないんだけど。
まあ上のやつは「贅沢」よりはどちらかと言うと「幸せ」寄りの話で、暮らしの質の話じゃないよね。
で、やっと本題と言うか、暮らしにおける普遍的な「贅沢」とは何か、についてなんだけど、
『いかに手を掛けるか』
ここに尽きるんじゃないかと思っている。
(まあこれは人生生きてまだ37年程度の若輩者の意見であり、今後経験を重ねるとまた別の考え方を得たりするんだろうが)
もちろん、手の掛かった品物、色んな手作りの品を購入することも十分に贅沢だとは思うんだけど、究極の贅沢はやはり「自分でやること」のように感じる。
いや、『いかに手を掛けるか』って雑誌に出てくるような素敵な奥様方になれって言ってるわけでもなく、すんごい素敵なお菓子や料理を作れって言ってるわけでもなく、
例えば味噌を仕込むとか(←仕込んでいません、念のため)、漬け物を作るとか(軽く高菜なら…)、干し柿を作るとか(これは毎年作ってます)、梅干しを作るとか(←一度は作ってみたいなあ…)、
いや、苦手なことはやらなくて良いと思うんです。私もやってみた末「ぬか漬け」と「パン作り」はやらないことにしました。外注のほうが早い。
掃除であれば、古い住宅を綺麗に保ち、柱などの手入れを丁寧に行うとか(←私そんなの一切やってませんけどね…)、
服なども出来得る範囲で自分で作り、不要になった服なども糸を解いて何かに作り直すとか(←ミシン買いました!早く箱開けなきゃ……)。
出来ないことを無理してやるということではないのですが、出来る範囲で色々なものに手を掛け、丁寧に生きる、これが最上の贅沢のように感じます。
まあ結局、そういう系の雑誌にでも書いてそうな結論でしかないのですが、
なんというのかな、そういう生活には実はお金はそれほどかからない。
「いやアンタ、そりゃ旦那がいて子供がいなくてかるーく働いているだけだからそんなことができるんでしょ」って思うかもしれないんだけど、いや実際それはそうなんだけど、それでも出来てないことが多いんだけど、
言いたいことは違うんです。
数万円とかもっとするような高級なお宿で何日も過ごすことよりも、本質的に、手を掛けた家(自宅)で手を掛けた服で手を掛けた食事を頂くことが贅沢であるならば、
目指すところが違うような気がするんだよね。お金を稼ぐことが幸せではないよね。お金はいくらでもあればいいものではないよね、自分の欲を満たすだけあればいいんだよね。
あって悪いものではないけれど、自分が望む生活以上を無理して稼ぐことは幸せにはならないよね。
何なんだろうな、この「お金」「お金」という価値観になっている社会への違和感は。
お金は勿論ある程度はいるんだけど、ある程度あるならあとは別の方向に舵を切ったほうが充実した、幸せな、贅沢な生活が送れるのでは?
結論、うーん、ゴーンさんの何千万円の家族旅行よりも、地味でも質素でも、手の掛けられた丁寧な暮らしの方がきっと贅沢(=心を真に満たし得る)。
そしてその「贅沢」は、特権階級の人のみに許されるものではなく、生活における意識の変化だけで徐々に手に入れられるものではないかと感じるんだけど、いかがでしょう?
それどころか気付かないだけで、そこらじゅうに転がっているものだと。
まあ幸せと同じかなあ。
以上、駄文お付き合いありがとうございました。
ではではまたの機会に。
今日は久しぶりに小噺を書いてみたいと思います。
お時間のある方、どうぞお付き合い下さい。
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お金があれば幸せなのか。
さて、どうして今回この記事を書くに至ったかと言うと、きっかけの一つは、ここのところよく取り沙汰されている『カルロス・ゴーン氏の不正等』の問題。
ニュースをぼけーっと見ていたら、『数千万円の家族旅行代金も日産が負担か』という内容が出てくるではないか。
数千万円の家族旅行代金?
数千万円の家族旅行代金??
数千万円の家族旅行代金???
……???
金額が大き過ぎて今一実感が湧かないのだが、家族旅行って数千万円も必要なの?
(自慢じゃないが私は一度の旅行代金が10万円を超えたことなんて無いわよ)
…というか、それ以前に、合計何十億かの報酬を得ていながら、どうして不正まで行って更なるお金を求めてしまったの?
…で、まあ今回のゴーンさんの件だけじゃないんだけど、いろんなことを考え合わせて、
お金を稼ぐことには上限がないから、お金だけを人生の目的にしてしまうことは不幸なんじゃないか
と、思った。
稼げるお金にも上限は無いし、注ぎ込んだお金の量だけで計られる贅沢な暮らしにも上限は無い。
だから、どこまで行っても満足は出来ないんじゃないかと。
贅沢とは何か。
で、贅沢とは何か、なんだけど、うちにある古ーい(高校生くらいの時に購入した…)電子辞書の広辞苑(第五版)によると、
「1.必要以上に金をかけること。分に過ぎたおごり。2.ものごとが必要な限度を越えていること。」
とある。
まあつまり言葉の意味としては『お金をかけること』というのが主なものであり、その意味で『贅沢とは何か』と言えば「お金をかけること」なんだから、お金がかかった暮らしこそが贅沢なんだろう。
でもこの文章内では、「贅沢=お金をかけること」とは捉えず、「贅沢=真に私達の欲求を満たすもの」という意味で用いたい。
つまり「贅沢な暮らし」=「本当に私達が幸せと感じる暮らし」という意味で。
最近そういう意味で「贅沢」が使われているのよく見るような気がするけどなあ。
やりたいことだけをすること。
まあまずはここだと思います。
これは、「朝起きて布団の中でテレビゲームをしてずっとゴロゴロして気付いたら美味しい食事が出てきたから食べてその後テレビをずっと見て寝た」みたいな生活のことを言っているんじゃなくて、
こういうことを望むこと自体がそもそもストレスが溜まっている状況だと私は思うのですが、それはさておき、
自分が「これだ、この仕事で私は生きて行く!」と思えるものを生業にし、その仕事に精を出し、
「この人と仕事がしたい!」と思える相手と仕事をし、相手の役に立ち、
「この人のために家事をしたい!もしくは稼ぎたい!」と思える相手と暮らしを共にし、お互いを支え合う。
これが、一番幸せ=贅沢なことだと思う。
エネルギーが循環して、体が一番良く動く気がするんだよね。
ただこの場合、それが「どの仕事なのか」「どの人なのか」は人によって違うだろうし、自分で見つけなきゃいけないものだから、「この仕事をやっておけばみんな幸せになれるよ!」みたいなことは言えないんだけど。
その上での普遍的な「贅沢」とは?
まあ上のやつは「贅沢」よりはどちらかと言うと「幸せ」寄りの話で、暮らしの質の話じゃないよね。
で、やっと本題と言うか、暮らしにおける普遍的な「贅沢」とは何か、についてなんだけど、
『いかに手を掛けるか』
ここに尽きるんじゃないかと思っている。
(まあこれは人生生きてまだ37年程度の若輩者の意見であり、今後経験を重ねるとまた別の考え方を得たりするんだろうが)
もちろん、手の掛かった品物、色んな手作りの品を購入することも十分に贅沢だとは思うんだけど、究極の贅沢はやはり「自分でやること」のように感じる。
いや、『いかに手を掛けるか』って雑誌に出てくるような素敵な奥様方になれって言ってるわけでもなく、すんごい素敵なお菓子や料理を作れって言ってるわけでもなく、
例えば味噌を仕込むとか(←仕込んでいません、念のため)、漬け物を作るとか(軽く高菜なら…)、干し柿を作るとか(これは毎年作ってます)、梅干しを作るとか(←一度は作ってみたいなあ…)、
いや、苦手なことはやらなくて良いと思うんです。私もやってみた末「ぬか漬け」と「パン作り」はやらないことにしました。外注のほうが早い。
掃除であれば、古い住宅を綺麗に保ち、柱などの手入れを丁寧に行うとか(←私そんなの一切やってませんけどね…)、
服なども出来得る範囲で自分で作り、不要になった服なども糸を解いて何かに作り直すとか(←ミシン買いました!早く箱開けなきゃ……)。
出来ないことを無理してやるということではないのですが、出来る範囲で色々なものに手を掛け、丁寧に生きる、これが最上の贅沢のように感じます。
まあ結局、そういう系の雑誌にでも書いてそうな結論でしかないのですが、
なんというのかな、そういう生活には実はお金はそれほどかからない。
「いやアンタ、そりゃ旦那がいて子供がいなくてかるーく働いているだけだからそんなことができるんでしょ」って思うかもしれないんだけど、いや実際それはそうなんだけど、それでも出来てないことが多いんだけど、
言いたいことは違うんです。
数万円とかもっとするような高級なお宿で何日も過ごすことよりも、本質的に、手を掛けた家(自宅)で手を掛けた服で手を掛けた食事を頂くことが贅沢であるならば、
目指すところが違うような気がするんだよね。お金を稼ぐことが幸せではないよね。お金はいくらでもあればいいものではないよね、自分の欲を満たすだけあればいいんだよね。
あって悪いものではないけれど、自分が望む生活以上を無理して稼ぐことは幸せにはならないよね。
何なんだろうな、この「お金」「お金」という価値観になっている社会への違和感は。
お金は勿論ある程度はいるんだけど、ある程度あるならあとは別の方向に舵を切ったほうが充実した、幸せな、贅沢な生活が送れるのでは?
結論。
結論、うーん、ゴーンさんの何千万円の家族旅行よりも、地味でも質素でも、手の掛けられた丁寧な暮らしの方がきっと贅沢(=心を真に満たし得る)。
そしてその「贅沢」は、特権階級の人のみに許されるものではなく、生活における意識の変化だけで徐々に手に入れられるものではないかと感じるんだけど、いかがでしょう?
それどころか気付かないだけで、そこらじゅうに転がっているものだと。
まあ幸せと同じかなあ。
以上、駄文お付き合いありがとうございました。
ではではまたの機会に。